その昔オイラもBSやっていて大人になってからはリーダーもやっていたりした。
真冬でも半ズボン、寒かったなぁ...。
さて、なんで急にこんな事言い出したのかというと、先日某blogで下記のような文章を目にしたからである。
撮影の前にやれることは、すべてやる。
料理の仕込みと同じで段取りがすべて。
そして常に頭の片隅に冷静な視点を持つ。
自戒を込めて書くんだけれど、カメラとか写真の世界ってなんか機材の話が殆どじゃないですか?
やれ、レンズがどうのこうの、ボディがどうのこうの、と。写真、つまりプリントでも感剤は何で引き伸ばし機がどうとか。
そんな話ばっかり。
大概どこぞのblogで掲載された画像見て、「あのレンズは素晴らしい。俺も欲しくなった」とか、写真展観に行って「やっぱり◯◯愛用のカメラが良いなぁ」とか、結果=プリントを見て出てくるのはそうした機材の話ばかりだ。
確かに使用している機材が何なのか?ってのは気になる。気になるところではあるが、そうした事を話題にするとき、その時のきっかけとなった一枚の写真は、たしかにそうした機材があってその上で成り立っているのだけれど、それから勿論その撮影者の技術の部分というのもある。だけれども、オイラたちが見ている写真という氷山の一角のそのまたてっぺんの下の海から頭を出しているそのあたりにそうした機材がやら技術があって、じつはそのしたにはもっと深くてでかいなにかが横たわっているはずだ。
つまり、そいつは段取りってやつだ。
まず、写真と撮るにはカメラが必要だ。フィルムやデジカメなら記録媒体が必要だ。そんなこと当たり前って、そりゃそうだけれど、「あっ、カメラもっていれば良かった!」ってのは誰にでもある経験だと思うからわかると思うけれど、いつでもカメラを持ってなければ思ったときに撮影はできないのだ。というアタリマエのことが意外と疎かになってはいないか? このblogをみているとき、あなたの傍らにはカメラは在るか? そしてそれはいつでも撮れるようにスタンバイされているか?
と、書きながら前にも同じようなこと書いたなぁなどと思ってきた。けれど勢いで続けよう。
道具を常に身につけていても、それだけでは駄目だ。いざという時に、いざという時は意外と興奮して冷静に撮れなかったりするものだから、心の準備というものも必要だ。また、何かありそうだな?という気配りも必要だ。そしてチャンスの時に確実に撮影できる技術的なバックボーンも勿論必要だ。そう考えていくとまだまだ段取りして置かなければならない事がどんどん出てきそうだ。
オイラたちが観て、感動する、その一枚の写真は、カメラだレンズだという機材のもっとまえに、そうした段取りというのが確実にそしてド深く存在しているはずなのだが、感動しているその瞬間オイラ達はそのことをすっかり忘れてしまっている。或いは知らないふりをしている。
先日ハービー山口氏の写真展を観に行ったら、運良くハービー氏は在廊していて少しだけ話をすることができた。ハービー氏とお会いするのも話すのも初めてのことだったのだが、彼のパーソナリティーにはほとほとヤラレてしまった。話しているとどんどん彼のペースにハマっていく。そしていつの間にかこちらもどんどんと話をするようになっていく。
勿論"営業"という部分もあるにはあるのだろうけれど、感じたのはもっとパーソナルなものだった。氏の写真集を観ると、よくこうゆうポートレート(特に若い女性の)が撮れるなぁと思うのだけれど、話をしていて合点がいくのを覚えた。自然な気持ちで会話が始まり、オイラ自身すごくリラックスした気分で(たしかに緊張はしていたけれど、ネ♪)相対することができたのは、彼のパーソナリティーによる部分が非常に大きいと感じた。あぁ、なるほど、こんな感じで声をかけて撮影しているのだろうなぁ、というのがよく分かったのだ。
ある意味彼のパーソナリティー自体が"段取り"といえるだろう。あの写真集にあるような写真は、もう彼が被写体に声をかけてコミュニケーションした段階ででほぼ決しているのだろうと思った。残念ながら彼と同じカメラを携えただけでは決して彼のような写真は撮れないのだ。人にはそれぞれ個性があるから誰もがハービー氏を真似て、というわけにはなかなかならないだろうけれど、すごく勉強になったのはたしかだった。