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それは気温と言うよりも湿度

なんともはちゃめちゃな事言ってるな>一年前のオレ
まぁ、でも、だ。
面白いからupしちゃう。
また一年後見たとき「馬鹿な事言ってるなぁオレ」ってのも、それはそれで面白いと思うし。
-2009.7.17

+++

備忘録です。


今までは風景写真など見ても「フーン、キレイだね」としか思えなかった。
なんで河とか森とか撮るのか、その理由さえ分からなかった。
キレイだからっていうのは分かるけど、その理由だけでは納得できない部分があった。
撮る理由として、だ。

しかし、昨日フト分かったのである。

先日「ハイスピードライディング」と題したエントリをした。
コーナーの出口からコーナリングを考え組み立てて行くという解説があったという話だ。

写真も同じだ。

自分は自分の露出とか自家処理の部分で、どうやったら正しくできるのか、なるのか悩んでいた。
具体的に言えば、自家現像しているネガが果たして正しいのか分からないのだ。
露光と現像処理の結果としてネガが完成するが、そのネガ濃度が正しいのかどうなのか分からないのだ。
・新聞紙の上にかざしてハイライト部分が読めるくらい
・プロは薄いネガを好む
そうゆう言葉に惑わされていたと今になっては思う。

ハイスピードライディングの話で言えば、コーナーの手前でどれくらい減速すれば良いのか? コーナリング中はどのくらいバンクさせれば良いのか? などコーナリングする手前から考えていたのと同じである。それでは答えが見つからない。そう、コーナーの出口から考えれば必然的に答えは導かれていくのである。
(これ、何度も同じコースを廻るサーキットでの話ね。一般道は一回こっきりだから当てはまらない。が、考え方は大変参考になる)

写真も同じ。コーナーの出口、つまりはプリントから組み立てれば良い。ねばならない。
どうゆうプリントがしたいか、まだ経験不足だからそれが分からなければ他人の作品を見てそれと同じようにとか、誰々のが好きでもOKでしょう、そこから組み立て始めて、その為にはどうゆうネガ濃度が必要で、その為にはどうゆう現像処理が必要で、その為にはどういった種類のフィルムが必要で、どう露光すれば良いのか、だからどう測光すれば良いのか、と順番に決まって行くのである。被写体を目の前にしてどのフィルムにするとかどう露光するとか考えていては駄目だということ。

そうすると、知っておかなければいけないことが自ずと浮かび上がってくる。

感剤の種類やその処理方法、写真機の仕組みや機構、レンズの描写性能等々。
感剤の種類や処理方法が分からないと、どうゆうプリントを作り上げられるのか分からない。
写真機の仕組みや機構が分からないと、どう露光するのか等分からない。人の代わりにやってくれるハイテク機構ほどその仕組みを知っておいた方が良いのは皮肉な話だ。

ハッキリ言って、写真機のスペックくらいしか興味がなかった。今思うと一番比較して分かりやすく、またそのようにメーカーや個人の情報も溢れている。

レンズの描写っていうのは中々理解できなかった。っていうか今でも理解出来ていない。

誉れ高いレンズだと人から人へ伝わる流布の方が大きくなって(ネットだとソレが更に加速する)、著名人が評価するとそのように見えない自分が変だと思えて、そのように見えると自分に言い聞かせていたように思える。
焼きを多少でも始めると雑誌のあのちっこい掲載写真では何も分からないことが分かるはず。理屈で考えても小さい写真ではその情報が圧縮されて分かりにくいのは明白だ。コントラストがどうのこうの、その小さな写真では分からないよ。
Leica virusも患っていたからw、どうも「中々潰れないシャドウ」とか「飛ばず、潰れず」などの表現にも惑わされていた。(そうゆう描写が良いのだと思っていた。)そんなのその小さな写真からでは分からないよ。だいたい生で見てみないとそんなこと言えないでしょう。
「飛ばず、潰れず」の話で言えば、歩いていこう:photoseason's blog  に書いてあるようにソレが良いとは言えない。真っ黒なところは潰れて当然だし、凄く明るい所は飛んで当たり前。飛ばないように、潰れないようにしているとシマリもないし立体感もないって事に最近気づいた。もっと言えばスナップ撮影では「そんなの関係ねぇー!」だ。


自分は小さなLサイズの写真しか必要ないというなら、それでも良いかも知れない。掲載されている小さな写真から判断すれば良い。或いはwebにアップするだけというなら、webでの見えだけで判断すればよい。出口さえ決めてしまえば自ずとその入り口は決まっていくのだから。

兎に角「潰れないシャドウ」等々感剤とその処理方法である程度Control出来るのだから、その評価をレンズだけに帰属してしまう行為は早計だと思う。レビュー記事はそう結論づけた方が分かりやすいしウケるからそうするだろう。
Leicaが不幸なのは、自身の伝説に足を引っ張られているってことだ。将来的に(メーカーにとってもユーザーにとっても)あまり良い着地点にならない場合が多いことは歴史が物語っている


自分は最初自家処理(自家現像だけ)を始めたとき、webにアップすることを目的としていた。自家プリントを始めるとどうも具合が良くない。そうするとPCが処理しやすい現像方法を自然と実行していたことに気がついた。出口を替えたのだから、その過程も変えなければいけないことに気がついたのだ。もっと言えばプリントも何処で見るかによってその処理方法が異なってくることもフォーラムで知った。写真展の為にプリントするなら写真展会場の照明に合わせてプリントする等々。

レンズの描写についてはもっと勉強しなければいけないだろう。コレが難しいのは好みが必ず関わってくるからだ。
コレが分かってくれば撮影前にプリントイメージを作り上げる事が出来てくるのだろうと思う。
「分かってる」というのは言葉にして他人に説明できる事だ。前にも書いたが、感じているだけでは駄目だ。6/1の備忘録にあるように、分かっている人はちゃんと言葉に出来ているのだ。自分はまだ出来ていない。


さて、出口から入り口へのアプローチが分かると、冒頭の疑問が解けたのである。

モノクロプリントの面白さと難しさは主にプリントの工程にあると思うが、当然その為には感剤の事を知っていなければいけないのだけれど、感剤の仕組み等がわかりどうすればファインプリントになるのかっていうのが分かってくる。ファインプリントがモノクロプリントの全てだとは思わないが魅せられるのは間違いない。誰だって美しいモノには惹かれるハズだからだ。どうすればキレイに仕上がるか分かってくると、誰だってそうしたくなる。そうするともっと大きなフォーマットで撮りたくなる。

河や森撮って何が楽しいねん!?

そう、思っていました。だけどキレイに仕上げる方法が分かれば撮りたくなるその気持ちも分かってきた。

この世で一番美しいのは女性だと思っているが、女性を撮るには相手が意志を持った人間だけに色々と難しい問題がある。このご時世だと何の承諾も得ず(撮られることを意識していない)女性を撮ることは尚更難しい。それに女性は人間だから動ける・動くのである。キレイに撮るには出来れば動かないで(撮影状況を変えずに)ジッとしていて欲しいが相手が人間では中々そうもいかない。となれば代わりにジッと動かないでくれる美しい被写体を捜すことになるのは自明の理。

ここでも昔からの言い回しに自分が引っ張っられていたことに気づいた。

『決定的瞬間』である。

カメラ・写真を趣味にしている人なら誰でも知っているであろう(いやそうじゃなくてもほぼ一般的に認知されていて、この言葉生み出した弊害というか誤った価値観みたいなものについてはこのエントリの一番下にそのリンク先を書いた。)

Leica virusに感染していたら尚更。殆ど神の言葉に近いんじゃないかと想像する。

何か決定的な一瞬だけを求めて撮っていたと思う。そこに全てがあると思っていた。
だから、尚更動かない被写体撮って何?みたいなモノが自分の中に染みついていた。
『決定的瞬間』で撮られた写真が多少ブレていたりボケていてもソレが良いんだと思っていた。
ある意味それは当たっている。
自分が主に撮る所謂スナップ写真は綺麗なプリントというよりも別の要因が大事なんだろうな、とやっと分かってきた。見るに堪えない酷い仕上げは別だが、所謂ゾーンシステム的なものとは求めるポイントが異なるのだろう。

しかし、そうゆう瞬間を撮った(狙った)写真は静止画像である写真の魅力ではあるが、全てではない。
また、瞬間を撮った(狙った)写真を撮ることだけの視線でいると、河や森を撮る意味も分からない。
そこにはその瞬間を狙って注意深く待つこと以上に被写体を詳しく見て知る必要があるのだ。
河や森をただジーと見ているだけではなく、そこに宿っている命やバックボーンを知っていなくては表面ズラをなぞっているに過ぎない。

そうしていると目の前にあるシーンが今まで見ていたモノとは全然異なることに気づく。
風景が変わったと気づく。いや、正確には今まで気づかなかっただけで、目の前の風景は変わっていない。

日常見ていたモノが立体的に深みをもって見えるようになり、美しく見えるようにもなってくるのである。
もっと簡単に誰でも経験ある話で言うと、ある日突然意識していなかった友人が可愛く(格好良く)見える瞬間がある、という例のヤツだ。アイツあんな可愛いトコあったっけ? みたいなアレである。対象の彼女(彼)は何ら変わっていない。変わったのはアナタの彼女(彼)に対する見方の方である。気づいた、と言っても良い。

正直コレには驚いた。世界が変わった瞬間だ。見える世界が違う。楽しい。笑っちゃう。

先日のエントリで紹介した『時差ボケ東京』でもコメントした脳と視覚の関係、これに気づく。

人間はその行動において80%以上視覚からの情報に頼っているらしいが、瞬間瞬間幾ら演算処理の優れたその脳みそで視覚情報を処理していてもそれは大変なものであることは想像できる。脳みその方も出来ればいざという時のために余力を取っておきたい(と思う)ので、過去のシーンと比較演算し今置かれている状況が同じ様ならそれに視覚情報を合わせてしまうケースがあると思う。つまり過去の例からパターン化して視覚情報を脳内で処理してしまうのだ。そうすると過去と今現在の小さな違いは無視され処理されてしまい本人は気づかない=意識しないって事が多い。その小さな違いが生きていく上で大きな影響は無しと判断されたら情報zeroとして処理されてしまう。クイズ番組などの視覚テストなどはテストと思ってみるから必死にその差異を見つけようと脳が働くが、テストだと思わなければ(その様に脳にインプットしなければ)その差異など殆ど無視して"見ている”ケースが多い。"見ようとするから見える"っていう例の話だ。

『時差ボケ東京』は、そうした脳内パターン思考を時間軸に沿って切り開いた写真だと思う。あの写真を見ていると、写真が瞬間を切り取ったシーンを見せてくれているにもかかわらず、脳内は時間の流れを意識しながら不必要と思われる対象はほどほどに、特定の情報(オブジェクト)だけを注意深く捉えて処理している事を再認識できる。

つまり、脳内視覚を変えれば変わるのである。

意識を変えれば世界が変わるのである。

あとはその”世界”をカメラにフィルムに収めれば良いだけのことなのだ。

って簡単に言っているけど、人間の見ているシーンとカメラとレンズが写し取るシーンは異なるので中々簡単にはいかない。何で異なるのかっていうのは、散々今まで書いてきたように人間のレンズとカメラのレンズが異なるってこともあるし、意識を持った人間とそうではないキカイとの違いもある。ましてやシーンは刻々と変わっているので撮りたい>撮れたと簡単にはいかない(子供はジッとしていないしね)

随分とグダグダ長くなってしまった(^_^;)


Henri Cartier-Bressonの映画の冒頭で印象的なシーンがある。
プリントした写真にHCBがサインをするシーンだ。
あの時は、うわっ、欲しいって思ったけど、今は思わない。
あの写真はHCBの写真ではない。
プリントをすれば分かる。撮影も現像もプリントもして始めて自分の写真になるのだ。

アンセルアダムスが「ネガは楽譜であり、プリンティングは演奏である」と言ったらしいけど、プリントもしないでコレは自分の作品ですって言うのは、演奏せずにこの曲は自分の曲ですって言っているのと同じだよね。



7月3日は脳内革命の日だった。

今日は暑い日だった。体感的に暑く感じるのは、気温と言うよりも湿度が主要因だろうって。
気温だけあーだ、こーだ言っていても、しょうがあるまい。

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第3回 一瞬を切り取ることについて

第4回 “奇跡的な一瞬”について
by nullpo_orz | 2008-07-03 23:59 | 銀塩

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by やっ
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